船と宴、静寂と音楽 ─プルーストの小宇宙─ / カフノーツ#20 ― 2006-01-29
カフノーツはコーヒーにまつわる短いお話をあれこれご紹介します。 コーヒーでも飲みながらのんびりお読みください。
「画家と音楽家たちの肖像」は、作家マルセル・プルーストの処女作『楽しみと日々』(1896年)に収められた詩編です。ギリシアの詩人ヘシオドスの有名な作品「仕事と日々」から借り受けたタイトルのこの作品は、まるで若きプルーストの宝物箱のように、短編小説や詩編・散文などが水彩画や楽譜に飾られたており、当時としては高価で豪華な本だったようです。ところが25才の青年プルーストが趣向を凝らした豪華な処女作は、当時の文壇からはまったく評価されませんでした。サロンに出入りしていたディレッタントによる若気の至りとでも思われていたのでしょうか。しかし近世になってから、この処女作は、後の長編『失われた時を求めて』へと続く「大輪の花々の、新鮮な蕾」であったとジッドがいうように再評価されました。
詩編「画家と音楽家たちの肖像」で取り上げられた画家や音楽家たちからは、若いプルーストの嗜好がうかがえます。アルベルト・カイプ、パウルス・ポッター、アントワーヌ・ワトー、アントワーヌ・ファン・ダイクなどの画家、そして、ショパン、グルック、シューマン、モーツァルトなどの音楽家たち、そのひとりひとりに捧げる詩を、情緒的で華やかな文体で短く綴っています。それぞれの短い詩を読むと、そこには、彼らの描く絵画や音楽の奏でる世界が、忽然とまるで立体画のように立ち現れてきます。
特に「アントワーヌ・ワトー」の詩では、ワトーの有名な「シテール島への船出」の作品世界を思い起こさせます。美と愛の女神アプロディテが海の泡から生まれたときにたどりついたといわれる、伝説の愛の島シテール。シテール島へ巡礼するものたちは恋人や夫を得て帰るといい、ワトーを初め、多くの絵画や文学・音楽でも多く取り上げられてきました。その伝説の島に集う若い男女たちを描いた、ロココ調の代表であるこの絵画からは、愛と喜び、そして当時の戯れの愛の悦楽がかいまみられます。プルーストは、ワトーの絵画の中で愛に群れ戯れる男女の姿を、退廃的にこう結びます。
恋の手管に必要なのは、巧みにそれを飾ること。
いま、ここにあるのは、船と宴、静寂と音楽。
最後のフレーズは、プルーストより以前に、やはりワトーの「シテール島への船出」について歌った詩人ボードレールへのオマージュ。ボードレールの詩「旅への誘い」の中で繰り返される「彼処では、すべてがただ秩序と美 奢侈、静寂、そして逸楽」というフレーズの喚起となっているといわれています。僅か九行ほどのこの短い詩にさえ、プルーストらしさが凝縮されています。
この詩「アントワーヌ・ワトー」をはじめ、さまざまな小作品が詰め込まれた『楽しみと日々』は、さながらプルーストの「小さな箱の中の宇宙」、好きなものでいっぱいに満たされた小宇宙のようです。当時の批評家たちに無視されたとはいえ、この処女作を刊行したときのプルーストは、きっとさぞ満足だったにちがいない、そう思わせる作品です。(カフコンス第24回「画家と絵画に寄せて」プログラム掲載。)
【参考文献】饗庭孝男『伝統の幻想』(筑摩書房)プルースト『楽しみと日々』(福武文庫)
西川公子 Hiroko Nishikawa
ウェブやフリペの企画・編集・ライティング。プレイステーションゲーム『L.S.D.』の原案、『東京惑星プラネトキオ』『リズムンフェイス』のシナリオなど。著作に10年分の夢日記をまとめた『Lovely SweetDream』。最近は老人映画研究家。

「画家と音楽家たちの肖像」は、作家マルセル・プルーストの処女作『楽しみと日々』(1896年)に収められた詩編です。ギリシアの詩人ヘシオドスの有名な作品「仕事と日々」から借り受けたタイトルのこの作品は、まるで若きプルーストの宝物箱のように、短編小説や詩編・散文などが水彩画や楽譜に飾られたており、当時としては高価で豪華な本だったようです。ところが25才の青年プルーストが趣向を凝らした豪華な処女作は、当時の文壇からはまったく評価されませんでした。サロンに出入りしていたディレッタントによる若気の至りとでも思われていたのでしょうか。しかし近世になってから、この処女作は、後の長編『失われた時を求めて』へと続く「大輪の花々の、新鮮な蕾」であったとジッドがいうように再評価されました。
詩編「画家と音楽家たちの肖像」で取り上げられた画家や音楽家たちからは、若いプルーストの嗜好がうかがえます。アルベルト・カイプ、パウルス・ポッター、アントワーヌ・ワトー、アントワーヌ・ファン・ダイクなどの画家、そして、ショパン、グルック、シューマン、モーツァルトなどの音楽家たち、そのひとりひとりに捧げる詩を、情緒的で華やかな文体で短く綴っています。それぞれの短い詩を読むと、そこには、彼らの描く絵画や音楽の奏でる世界が、忽然とまるで立体画のように立ち現れてきます。
特に「アントワーヌ・ワトー」の詩では、ワトーの有名な「シテール島への船出」の作品世界を思い起こさせます。美と愛の女神アプロディテが海の泡から生まれたときにたどりついたといわれる、伝説の愛の島シテール。シテール島へ巡礼するものたちは恋人や夫を得て帰るといい、ワトーを初め、多くの絵画や文学・音楽でも多く取り上げられてきました。その伝説の島に集う若い男女たちを描いた、ロココ調の代表であるこの絵画からは、愛と喜び、そして当時の戯れの愛の悦楽がかいまみられます。プルーストは、ワトーの絵画の中で愛に群れ戯れる男女の姿を、退廃的にこう結びます。
恋の手管に必要なのは、巧みにそれを飾ること。
いま、ここにあるのは、船と宴、静寂と音楽。
最後のフレーズは、プルーストより以前に、やはりワトーの「シテール島への船出」について歌った詩人ボードレールへのオマージュ。ボードレールの詩「旅への誘い」の中で繰り返される「彼処では、すべてがただ秩序と美 奢侈、静寂、そして逸楽」というフレーズの喚起となっているといわれています。僅か九行ほどのこの短い詩にさえ、プルーストらしさが凝縮されています。
この詩「アントワーヌ・ワトー」をはじめ、さまざまな小作品が詰め込まれた『楽しみと日々』は、さながらプルーストの「小さな箱の中の宇宙」、好きなものでいっぱいに満たされた小宇宙のようです。当時の批評家たちに無視されたとはいえ、この処女作を刊行したときのプルーストは、きっとさぞ満足だったにちがいない、そう思わせる作品です。(カフコンス第24回「画家と絵画に寄せて」プログラム掲載。)
【参考文献】饗庭孝男『伝統の幻想』(筑摩書房)プルースト『楽しみと日々』(福武文庫)
西川公子 Hiroko Nishikawa
ウェブやフリペの企画・編集・ライティング。プレイステーションゲーム『L.S.D.』の原案、『東京惑星プラネトキオ』『リズムンフェイス』のシナリオなど。著作に10年分の夢日記をまとめた『Lovely SweetDream』。最近は老人映画研究家。
画家と絵画に寄せて(カフコンス第24回) ― 2006-01-29
*曲目
アーン「画家の肖像(プルーストの詩による)」*ピアノ
Reynaldo Hahn (1875-1947)
Portraits de peintres d'après les poésies de M.Proust (1894-6)
Albert Cuyp アルベルト・カイプ
Paulus Potter パウルス・ポッター
Anton Van Dyck アントン・ヴァン・ダイク
Antoine Watteau アントワーヌ・ワトー
シルヴェストリーニ「オーボエ独奏のための6つの絵」より *オーボエ
Gilles Silvestrini (1961-)
6 tableaux pour hautbois (1984/97)
Hôtel des Roches Noires à Trouville (Monet)
トゥルーヴィルのロシェノワールホテル(モネ、1870)
Sentier dans les bois (Renoir)
森の中の小径(ルノワール、1874)
Scène de plage - ciel d'orage (Boudin)
海辺の風景−嵐の空(ブーダン、1864)
Le ballet espagnol (Manet)
スペインの踊り(マネ、1862)
フランセ「ルノワールの15の子供の肖像」より *オーボエとピアノ
Jean Françaix (1912-97)
15 Portraits d'enfants d'Augste Renoir (1971)
Mademoiselle Cahen D'Anvers
カーン・ダンヴェール嬢(1880)
Au piano
ピアノに向かって(1892)
Fillette au chapeau a plume rose
ばら色の羽飾りの帽子の少女(1876)
(ムソルグスキー「展覧会の絵 より 卵の殻をつけたひなの踊り」
ラヴェル編との混合版 *オーボエとピアノ)
*出演
福井貴子(オーボエ)
川北祥子(ピアノ)
おはなし:山口健児(画家)
*プログラムコメント
「画家の肖像」は若きプルーストが17世紀の画家達に捧げた詩に親友アーンが作曲したもので、楽譜も詩の付録として初版された。声楽作品の多いアーンが言葉に拠らずピアノ独奏曲とした点も面白い。
「6つの絵」はオーボエ奏者としても知られる作曲家シルヴェストリーニによる演奏会用練習曲。オーボエ1本だけで印象派絵画の世界を表現してしまうという、名手による名手のための難曲である。
「15の子供の肖像」は題名通り子供の描かれたルノワールの15枚の肖像画に寄せたピアノ連弾曲集で、子供同士でも易しく演奏できるよう配慮されている。本日はオーボエとピアノの二重奏で演奏する。
*山口健児さんによる当日のおはなし
「印象派の絵画とシルヴェストリーニ」
先程聞いて頂いた4曲のもとになる画家達は、それぞれバロックやロココなど、油彩の中でも古典的な表現をしている画家の絵について詠った、プルーストの詩がもとになった曲でした。それに対しこれから演奏される4曲は、現代の美術に繋がる大きな転換時期となった印象派の始まる頃の代表的な画家達によって描かれた絵からインスピレーションを受けて作られた曲です。私は美術史の研究者でも評論家でもないので、絵を描く者として、私自身が今まで見て感じてきたままに、印象派の画家や絵について話そうと思います。
印象派以前の絵は、例えば貴族や裕福な人から依頼されて描かれた、肖像画などの絵が多かったように思います。そのため絵の中に誰が描かれているのか、描かれた人の服装やポーズ、その場所などの意味も重要だったりしました。ところが、印象派の画家達はそれまでと異なり、そこにどんな意味のものを描くのかということよりも、絵の中に使われる色の純粋な美しさを大切に思い追求したり、その対象となる風景や人物などよりも、そのモチーフを見た画家がどう感じるかを大切なものとして表現するようになりました。
印象派の有名な画家セザンヌ(この曲には取り上げられていませんが)が自分の奥さんを描いた肖像画について話した言葉にこんなのがあります。「これは私の妻だ。それだけだ。やさしいのか。頭がよいのか。軽薄な人間なのか、といったことについて、肖像画はなにも語らない。絵は本ではない。私はおしゃべりな連中がだまりこむような絵を描きたい。絵画は色彩以外なにも表現しない。ストーリーとか真理とか、そういうものは大嫌いだ。人間の心理など、すべて青と黄土色の関係の中に含まれてしまう。私にとって顔は風景や植物と同じ価値しかない。」この言葉は、印象派とそれまでの絵画との大きな違いについて、よく説明しているように思います。
そのように描かれた印象派のこの絵たちが、シルヴェストリーニに選ばれたのは何故か? ということについて少し考えてみました。今回演奏されるのはクロード・モネの「トゥルーヴィルのロッシュ・ノアール・ホテル」(1870年)、ルノワールの「森の中の小路」(1874年)、ウジェーヌ・ブーダンの「海辺の情景 嵐の空」(1864年)、エドゥワール・マネの「スペインの踊り」の4点の絵についての曲です。この4点の共通しているところはどこでしょう? その辺りにヒントがあるのではないでしょうか?
マネの「スペインの踊り」を除くと、他の3点はいずれも、街であったり田舎であったり、人の生活と関わりある風景を描いています。家や人が描かれていても、そこに何かのストーリーを現すために描かれたのではなく、人もその風景の中の一部として描かれている。表したかったのは、その風景の、一瞬でも目を離すと変わってしまうようなゆらゆらと動く光りだったり、現場で受けた印象をそのまま即興的な筆運びで描いた色だったりします。そしてその絵は、人々が仕事や何かに追われていると見過ごしてしまうような、日常の身の回りにある風景など、その季節の煌めく光りや空気の流れが良く表されている。その明るい色や軽やかな筆致は、その描かれたフランスの地域のよく見る光景ではなかったのだろうか? そんな気がして来ました。とすると、この描かれている光景は、作曲者であるシルヴェストリーニの、実際に生活したフランスの風景が、その絵を見ることによって思い返されて、彼の今まで体感してきたことが実感として絵からより鮮明に追体験されたのではないだろうか? そして、その絵の中の鮮やかな色が彼の中で音に変わり、筆によって作られたタッチがメロディーの流れに変わって絵から聞こえてきたのではないか? 彼にとって音の絵画として、実感を持って真に迫って聞くことが出来た絵が選ばれたのかも知れない、そんなように思えてきました。
この演奏を聴いている間に、聞こえてくる音に身を任せて、例えば、ここは公園の中を歩いていた時に見た、静かな風によってキラキラと揺らめく木漏れ日のようだとか、ここは喫茶店の前の通りをたまに通る賑やか人達のようだとか、雨を気にして空を見た時、みるみる姿を変えて拡がっていく雲のようだとか、勝手に自分の中で浮かんでくる場面を思い描いてみるのも楽しいかも知れません。私も聞くに当たって何が見えてくるのか楽しんでみようと思います。
(※シルヴェストリーニ演奏後に4枚の絵をご覧いただきました。ブーダンの作品は曲のタイトルと一致する画像を入手できず「トゥルーヴィルの海辺-嵐の印象(1894)」で代用しました。)
「ルノワールと子供の絵」
ルノワールも最初は印象派の他の画家達と共に、印象派の光と色彩の表現を開拓していきましたが、人物自体を描くことに特に情熱を傾けたルノワールにとっては印象派の手法は合わないものとなり、サロンでの成功もあって、やがて独自の路を歩むようになりました。今回取り上げられた少女の絵はそんなルノワールの思考が良く現れているといってもよいのかも知れません。
ルノワールは多くの少女の肖像画を描いていきました。例えば今回取り上げられているうちの一枚「ピアノを弾く少女たち」は、ほとんど同じ構図で手や表情など描いてあるものの形が異なったり、全部で5枚のヴァージョンがあったりします。うち1枚は国家の買い上げとなりました。その他にも同じ少女をモデルにした複数の絵を描いたりしています。何れの少女の肖像画も無垢で愛らしく人生の上で最も愛すべきもの、とでも言うべき感じで穏やかな雰囲気で、美しく大切に描かれています。それは子供の頃持つ純粋さや幸福な状態を、そのまま絵の中に留めておきたいと願うかのようです。
彼は生涯、人を幸せにするような絵を描きたいと言うことを思っていたようで、正確な彼の云った言は分かりませんが、このような言葉を残しています。「人生には不愉快なことが沢山ある。だからこれ以上、不愉快な物を作る必要なんか無いんだ」、彼が何故それほどまでに少女の絵を描いたのかというのは、彼が云ったこの言葉の中になにかのヒントがあるのかもしれません。
(※フランセは絵をご覧いただきながら演奏しました。3枚目はカラー画像を入手できなかったためモノクロのもの。)
(※アンコール「卵の殻をつけたひなの踊り」の元となった、ムソルグスキーの友人で画家・デザイナー・建築家のガルトマンによるバレエ衣装デッサン。)
*カフノーツ
#20 船と宴、静寂と音楽 ─プルーストの小宇宙─
アーン「画家の肖像(プルーストの詩による)」*ピアノ
Reynaldo Hahn (1875-1947)
Portraits de peintres d'après les poésies de M.Proust (1894-6)
Albert Cuyp アルベルト・カイプ
Paulus Potter パウルス・ポッター
Anton Van Dyck アントン・ヴァン・ダイク
Antoine Watteau アントワーヌ・ワトー
シルヴェストリーニ「オーボエ独奏のための6つの絵」より *オーボエ
Gilles Silvestrini (1961-)
6 tableaux pour hautbois (1984/97)
Hôtel des Roches Noires à Trouville (Monet)
トゥルーヴィルのロシェノワールホテル(モネ、1870)
Sentier dans les bois (Renoir)
森の中の小径(ルノワール、1874)
Scène de plage - ciel d'orage (Boudin)
海辺の風景−嵐の空(ブーダン、1864)
Le ballet espagnol (Manet)
スペインの踊り(マネ、1862)
フランセ「ルノワールの15の子供の肖像」より *オーボエとピアノ
Jean Françaix (1912-97)
15 Portraits d'enfants d'Augste Renoir (1971)
Mademoiselle Cahen D'Anvers
カーン・ダンヴェール嬢(1880)
Au piano
ピアノに向かって(1892)
Fillette au chapeau a plume rose
ばら色の羽飾りの帽子の少女(1876)
(ムソルグスキー「展覧会の絵 より 卵の殻をつけたひなの踊り」
ラヴェル編との混合版 *オーボエとピアノ)
*出演
福井貴子(オーボエ)
川北祥子(ピアノ)
おはなし:山口健児(画家)
*プログラムコメント
「画家の肖像」は若きプルーストが17世紀の画家達に捧げた詩に親友アーンが作曲したもので、楽譜も詩の付録として初版された。声楽作品の多いアーンが言葉に拠らずピアノ独奏曲とした点も面白い。
「6つの絵」はオーボエ奏者としても知られる作曲家シルヴェストリーニによる演奏会用練習曲。オーボエ1本だけで印象派絵画の世界を表現してしまうという、名手による名手のための難曲である。
「15の子供の肖像」は題名通り子供の描かれたルノワールの15枚の肖像画に寄せたピアノ連弾曲集で、子供同士でも易しく演奏できるよう配慮されている。本日はオーボエとピアノの二重奏で演奏する。
*山口健児さんによる当日のおはなし
「印象派の絵画とシルヴェストリーニ」
先程聞いて頂いた4曲のもとになる画家達は、それぞれバロックやロココなど、油彩の中でも古典的な表現をしている画家の絵について詠った、プルーストの詩がもとになった曲でした。それに対しこれから演奏される4曲は、現代の美術に繋がる大きな転換時期となった印象派の始まる頃の代表的な画家達によって描かれた絵からインスピレーションを受けて作られた曲です。私は美術史の研究者でも評論家でもないので、絵を描く者として、私自身が今まで見て感じてきたままに、印象派の画家や絵について話そうと思います。
印象派以前の絵は、例えば貴族や裕福な人から依頼されて描かれた、肖像画などの絵が多かったように思います。そのため絵の中に誰が描かれているのか、描かれた人の服装やポーズ、その場所などの意味も重要だったりしました。ところが、印象派の画家達はそれまでと異なり、そこにどんな意味のものを描くのかということよりも、絵の中に使われる色の純粋な美しさを大切に思い追求したり、その対象となる風景や人物などよりも、そのモチーフを見た画家がどう感じるかを大切なものとして表現するようになりました。
印象派の有名な画家セザンヌ(この曲には取り上げられていませんが)が自分の奥さんを描いた肖像画について話した言葉にこんなのがあります。「これは私の妻だ。それだけだ。やさしいのか。頭がよいのか。軽薄な人間なのか、といったことについて、肖像画はなにも語らない。絵は本ではない。私はおしゃべりな連中がだまりこむような絵を描きたい。絵画は色彩以外なにも表現しない。ストーリーとか真理とか、そういうものは大嫌いだ。人間の心理など、すべて青と黄土色の関係の中に含まれてしまう。私にとって顔は風景や植物と同じ価値しかない。」この言葉は、印象派とそれまでの絵画との大きな違いについて、よく説明しているように思います。
そのように描かれた印象派のこの絵たちが、シルヴェストリーニに選ばれたのは何故か? ということについて少し考えてみました。今回演奏されるのはクロード・モネの「トゥルーヴィルのロッシュ・ノアール・ホテル」(1870年)、ルノワールの「森の中の小路」(1874年)、ウジェーヌ・ブーダンの「海辺の情景 嵐の空」(1864年)、エドゥワール・マネの「スペインの踊り」の4点の絵についての曲です。この4点の共通しているところはどこでしょう? その辺りにヒントがあるのではないでしょうか?
マネの「スペインの踊り」を除くと、他の3点はいずれも、街であったり田舎であったり、人の生活と関わりある風景を描いています。家や人が描かれていても、そこに何かのストーリーを現すために描かれたのではなく、人もその風景の中の一部として描かれている。表したかったのは、その風景の、一瞬でも目を離すと変わってしまうようなゆらゆらと動く光りだったり、現場で受けた印象をそのまま即興的な筆運びで描いた色だったりします。そしてその絵は、人々が仕事や何かに追われていると見過ごしてしまうような、日常の身の回りにある風景など、その季節の煌めく光りや空気の流れが良く表されている。その明るい色や軽やかな筆致は、その描かれたフランスの地域のよく見る光景ではなかったのだろうか? そんな気がして来ました。とすると、この描かれている光景は、作曲者であるシルヴェストリーニの、実際に生活したフランスの風景が、その絵を見ることによって思い返されて、彼の今まで体感してきたことが実感として絵からより鮮明に追体験されたのではないだろうか? そして、その絵の中の鮮やかな色が彼の中で音に変わり、筆によって作られたタッチがメロディーの流れに変わって絵から聞こえてきたのではないか? 彼にとって音の絵画として、実感を持って真に迫って聞くことが出来た絵が選ばれたのかも知れない、そんなように思えてきました。
この演奏を聴いている間に、聞こえてくる音に身を任せて、例えば、ここは公園の中を歩いていた時に見た、静かな風によってキラキラと揺らめく木漏れ日のようだとか、ここは喫茶店の前の通りをたまに通る賑やか人達のようだとか、雨を気にして空を見た時、みるみる姿を変えて拡がっていく雲のようだとか、勝手に自分の中で浮かんでくる場面を思い描いてみるのも楽しいかも知れません。私も聞くに当たって何が見えてくるのか楽しんでみようと思います。




「ルノワールと子供の絵」
ルノワールも最初は印象派の他の画家達と共に、印象派の光と色彩の表現を開拓していきましたが、人物自体を描くことに特に情熱を傾けたルノワールにとっては印象派の手法は合わないものとなり、サロンでの成功もあって、やがて独自の路を歩むようになりました。今回取り上げられた少女の絵はそんなルノワールの思考が良く現れているといってもよいのかも知れません。
ルノワールは多くの少女の肖像画を描いていきました。例えば今回取り上げられているうちの一枚「ピアノを弾く少女たち」は、ほとんど同じ構図で手や表情など描いてあるものの形が異なったり、全部で5枚のヴァージョンがあったりします。うち1枚は国家の買い上げとなりました。その他にも同じ少女をモデルにした複数の絵を描いたりしています。何れの少女の肖像画も無垢で愛らしく人生の上で最も愛すべきもの、とでも言うべき感じで穏やかな雰囲気で、美しく大切に描かれています。それは子供の頃持つ純粋さや幸福な状態を、そのまま絵の中に留めておきたいと願うかのようです。
彼は生涯、人を幸せにするような絵を描きたいと言うことを思っていたようで、正確な彼の云った言は分かりませんが、このような言葉を残しています。「人生には不愉快なことが沢山ある。だからこれ以上、不愉快な物を作る必要なんか無いんだ」、彼が何故それほどまでに少女の絵を描いたのかというのは、彼が云ったこの言葉の中になにかのヒントがあるのかもしれません。




*カフノーツ
#20 船と宴、静寂と音楽 ─プルーストの小宇宙─
最近のコメント