二度あることは三度ある(mao2いろは歌留多)2002-01-10

映画に出てくるものは全部アヤシいと思っている。限りあるスクリーンに映り込んでいるものは全てに意味がありそうだから見逃すわけにいくものかと思いながら見ている。二度出てくるものはさらにひっかかる。二度あることは三度あるに違いない。そうして三度目を手ぐすね引いて待っている。

出し抜かれるのもまた楽しいが、知らないうちにタキシードにパラシュートを仕込んでいて許されるのはジェームス・ボンドくらいで、普通なら伏線は必ず先に提示しておくものだ。もちろんそうそう簡単に見抜かれるような作り方はされていないから、結局あとから悔しい思いをし、さらに疑心暗鬼になって見ているとオチのつかないディテイルで頭の中がいっぱいになってしまったりもする。

オペラでは映画よりディテイルは限られるからその分重要度が高い。観客の協力も必要になる。何しろヒロインがちょっとフラっとしただけで結核を疑わなければならないのだ。そのくせ歌詞は何度も繰り返されたりするから始末が悪い。「苦難と悦楽」などと十回も叫ぶ間にどれだけの情報が伝達できることか。その容量を「声」に使い切ってしまうのがオペラなのである。しかしそんな中たった二秒で過ぎ去るこんな台詞(といってもやはり歌われるのだが)を追いかけてみるのも一興だ。

È strano! 不思議ね」
〜どうして彼に惹かれてしまうのかしら(ヴェルディ『椿姫』一幕)

パリ裏社交界の花形ヴィオレッタは純真な青年アルフレードと出会い、華やかな生活を捨てて彼との生活を選ぶ。

È strano! 不思議ね」
〜彼はどうして出かけたのかしら(同二幕)

幸せな生活はアルフレードの留守中に訪れた彼の父親に引き裂かれる。一家の名誉の為とせがまれ身を引いたヴィオレッタに、裏切られたと誤解したアルフレードは金をたたきつける。

È strano! 不思議ね」
〜なんだか力がわいてきたの 生きられるんだわ!(同三幕)

誤解の解けたアルフレードと病床のヴィオレッタの再会。だが奇跡は起こらない。(キスで生き返ることが許されるのは白雪姫だけだ。)

ヴィオレッタの生涯における二度の大きな転機の台詞を三度目に最期の言葉として登場させる見事な台本。やはり二度あることは…待てよ、「二度あることは三度ある」というのは三度に限らず何度も繰り返すというたとえではなかったか。まあいいか、「一、二、たくさん」と数える人もいることだしね。


川北祥子 ピアノ奏者(stravinsky ensemble)
フリーペーパーmao2 vol.4掲載

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*オマケ話(gingapanda掲載の連動コラム)
三つ子の魂百まで

三つ子の魂百までとはよく言ったもので幼い頃の体験がいかに人間に影響を残しているものなのかを最近本当に実感させられている。というのは二年程前から何故か突然大のパンダ好きになってしまったのだが、よく考えてみると子供の頃ピアノ教室の友達の家にあったパンダのぬいぐるみに一目惚れしてパンダに凝っていたことがあったのだ。音楽に関しても、二十歳を過ぎてから急に新古典期のストラヴィンスキーに傾倒したのだが、何故か同時にサン=サーンスも好きというのは、どうしたって子供の頃に繰り返し聴いていた「動物の謝肉祭」の影響であることは間違いないし、そもそも新古典に惹かれること自体きっと子供の頃に大好きだった「ピーターと狼」の影響なのだろう。オペラにしてもヴェルディは凄いとわかっていても何故かロッシーニやドニゼッティのほうがワクワクしてしまうのはどう考えても子供の頃見た「トムとジェリー」の影響に違いない。そしてフルートという楽器が何故か好きなのはもしかしたら父の演奏を聴いて育った影響かもしれないのだが、これだけはちょっと疑問でもある。というのは父が手にしていたのはまぎれもなくフルートだったのだが、その音はフルートとは言い難いものだったからだ。